まとめます

このブログは、2008年12月24日 から開始しています。
この記事は常にトップに来るようになっています。

★★★★★★★
足利直義(徳治2年(1307年)~観応3年/正平7年2月26日(1352年))
『尊卑分脈』に「本名高国」、また『公卿補任』に「忠義」とありますが、これについては、またいずれ。法名は惠源。
室町幕府初代将軍足利尊氏の二歳違いの同母弟であり、幕府草創に当たって、政務の多くを尊氏から任されていました。
建武5年/延元3年(1338年)8月11日尊氏が征夷大将軍に任じられ、同じ日に直義が左兵衛督に任ぜられたことを、『太平記』は「日本ノ副将軍ニ成給ウ」と書いています。
しかし、権限の二分化は結局対立を生み、日本を二分する戦乱と長い社会混乱の芽となったのです。
兄尊氏に、「今生のくわほうをば直義にたばせ給候て、直義あんおんにまもらせ給候べく候」と願われ、
当時において「ゲニゲニシク(誠実で)偽レル御色ナシ」と評されながらも、悲劇的な最期を迎えなければならなかった足利直義とは、どんな人物だったのでしょうか。
★★★★★★★

ということで、mixi内にて足利直義のコミュニティを作りました。
が、ちょっと心許ない所がありますので、backupとまとめの意味合いでブログを作りました。
私の書き込みと、コミュニティメンバーからご教示いただいた事を差し支えないと思われる範囲でまとめています。


※以下、連絡事項などです。たまに更新してますので、たまにチェックしてみて下さい。

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2019年8月 1日 (木)

『観応二年日次記』を読む ④ まとめ+α

http://nazowada-bike.way-nifty.com/tadayoshi/2019/07/post-bd09c1.html


特に何か新しい発見があったというわけでもないのに、
長々と書いてしまいました。


史料を読むと言っても、
読み間違いがあっても訂正してくれる先生もいないので、
不安な部分も多いのですが、
素人なりに知識を出し合って、
思いついた事を思うままに言えるのは、
こういう場、ならではだと思います。

正直
どんなに史料を読んでも、書かれている事は一面だけで、
本音のところはわからないし、
今回の解釈も、突っ込みを入れようと思えば、いくらでも疑問が湧いてきます。

うん、
でも、
ほんと、私だけでは思いつかなかった事を
様々な視点から、いろいろ言っていただけて、すごくおもしろかったし、
勉強になりました。

「將軍立兵庫ノ琵琶頸寺上洛之時分。彼執事越州等欲令供奉之處。以秋山新蔵人被申云。」

事象としてしか捉えていなかった一文にも、
なんだか師直たちの心細さが感じられて、切なくなります。
尊氏も、これが今生の別れになるとは思わずにいたのなら……

他にも、
「行ったきり帰ってこない今法師(誰?)」
とか
「尊氏、直義のことめっちゃスルー」
とか

言われてみれば、ほんとにね~~ www


ところで
勉強会では考察しなかったのですが、
師直たちがどれくらい離れてついて行ったかと言いますと、
「三里許」

律令制の尺度で計算して、約1.6kmだと思ったのですが、
『太平記』に「出雲の富田から京まで76里」という意味の記述があって
これは近世以後の尺度で計算した方が妥当な数字になります。
そうすると、「三里」は約12kmです。

乗馬の常歩を時速約6.6kmと考えて計算すると、
上記では15分ほどの遅れ。
下記では2時間近い遅れになります。
当時の馬ではもう少し遅くなるかもしれません。

個人的には、
2時間はいくらなんでも、ゆっくりし過ぎではないかと思いますし、
15分遅れくらいが適当な気がします。

なんかこの時代、どちらともはっきりしないみたいで。
かんべんしてほしいですね。

『太平記』を読むと、
離れないように必死でついて行こうとしているのに
間に割って入られて、だんだんと距離が開いていったように書かれていますが、
『日次記』で見ると、
いずれにせよ、最初からそれなりに距離が取られていたことになります。

以上、余談でした。


勉強会では
人物比定に調査の余地が残っていたり、
用語の解説が不充分だと思う部分があったので、
心に留め今後に活かせればと思います。

参加者の方たちにもなかなか好評でしたので、
近いうちに、続き……
ではなく、遡って2月の前半を読む会を考えています。

今回使用した『群書類従』版は、誤記や遺漏が多いという噂もありますので、
機会があれば、異本を確認したりもしたいです。

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2019年7月30日 (火)

『観応二年日次記』を読む ③

http://nazowada-bike.way-nifty.com/tadayoshi/2019/07/post-23e91b.html  ※ここからの続きです。


さて、
肝心の

足利尊氏は上杉氏の仇討ちを承知していたのか?

です。

21日条に、
(直義の下へ)尊氏の遣いが何度も来て、
高師直、師泰の今後について話合いをした事が書かれています。

結局、
出家して上洛し、政務を退くことを条件に、命は助けるということに決まり、
師直たちは24日に出家します。

そして26日
尊氏の上洛に供奉したいという高兄弟に、尊氏が、
「お前らみっともないからこっち来るな(意訳)」
と言ったというあの話はこの条です。
実は私、よくこの話を聞くので
『太平記』などのメジャーな史料にも似たような話が出てるのかと思っていたのですが、
これって『日次記』だけに書かれているのですね。

尊氏のこの言葉があったがために、
結果として、丸腰の高一族の一団が取り残され、
上杉氏の襲撃に対抗することができず、一方的な殺戮にさらされることになりました。
そのため
これは、尊氏が上杉氏に、仇討ちをし易い状況を作ってやったのではないか?
と捉えられてきました。

尊氏ひで~~
一度は許すと言ったものを!
そりゃぁ玉梓も里見家を呪っちゃうってもんですよ!
ねぇ!!

「みっともない」とか、ひどい言い様ですが、
「以秋山新蔵人被申云」とあるので、
尊氏が秋山を通して師直たちに伝えた言葉だと考えてよいと思います。
直義はこの時遠く石清水八幡宮にいるので、直義の指示というのも難しいです。

ここで、おもしろい事に気付いて下さった方がいました。
秋山が伝えた言葉は
「執事越州等供奉之條見苦歟」
……「歟」
つまり、尊氏は、
「(尊氏の上洛に)付き従うことは見苦しいのではないか?」と、師直たちに尋ねている。
尊氏が師直たちを「見苦しい」と思ったというより、
将軍の近くにいるのでは目立ってしまい、(師直たちが自らを)見苦しい…惨めだと思うのではないか? と気遣っているのでは?

なるほど。
何度も交渉して助命した割に、
師直に対して、尊氏がやけに冷たいように思いましたけど、
そういうことなら、態度に一貫性があるような気がします。

同じ日の記述には、
尊氏が、
政務に関わらないという条件で助命するという事に、異議を唱えないようにと伝え、
直義から
将軍の申出に異議を出さないと返答をした
という事が書かれています。


その後の成り行きを検討してみたいのですが、
ここまで読む限りでは、
この時点で、
尊氏にも直義にも
高一族を滅亡に追い込むほどの意識はなかったように思えます。


次でまとめます。

http://nazowada-bike.way-nifty.com/tadayoshi/2019/08/post-4af014.html

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『観応二年日次記』を読む ②

http://nazowada-bike.way-nifty.com/tadayoshi/2019/07/post-ab14f6.html  ※ここからの続きです。


今回の勉強会参加者は、私を入れて10名。
用意した史料も、初めて読むという方がほとんどでしたが、
わいわいと楽しく進めることができました。
ありがとうございました。


最初に、背景や人物相関をざっと説明して、
参加者に、順番に本文を読んでいただき、
間あいだに言葉の説明や人物比定を入れながら、
皆さんと考えた事などを話合いました。

その中で、
今回興味深かった事、
今後検討していきたい事
がいくつかありました。

並行して提示した史料は
『園太暦』と『太平記(西源院本/岩波文庫)』

『観応二年日次記』を読み進み
いよいよ2月26日の条にかかり、思い思いに意見交換などしている時、
ある方からの指摘
「『園太暦』の日付が違う」

ええええーーーーっ!?

たっっ確かにっ!!
これは、

25日と読める!

もちろん私は事前に読んでいたのですが、
「当然26日」という頭でいたため、
まっったく気付いていませんでした!
恥ずかしい!

用意した文書などの参考史料も確認したところ
他にも27日などとなっている史料がちらほらと……
けっこう異同がある。
勉強不足でした。

じゃぁもしかして、
高一族の滅亡が
26日じゃない可能性もあるの?


って
結論から言えば、
まぁ…26日でいいんじゃないかな?

このご指摘から、今グループ内で、
なぜ26日が定説になったのかを少し検討しているのですが、
私の考えをここでも述べさせていただくと、

『観応二年日次記』は『園太暦』より情報精度高いんじゃない?
(『園太暦』の記事が風聞に頼る部分が多いのに対し、
『日次記』は、作者が頻繁に直義の下へ出向くなどして、状況を把握している)

というのと
足利市にある光得寺の供養塔の銘に

「前武州太守 道常大禅定門 観應二辛卯年 二月廿六日」

とあり、
「太守」の単語にやや引っ掛かりは感じるのですが、
これは、かなり信頼できるのでは?
ということ。
あとは単純に、時系列的に26日の方が無理がない気がするから 💦

『園太暦』は一次史料としてかなり有効だけど
「鷲林寺は武庫川辺じゃないよ」問題などもあって、
引用するには注意が必要。
(※ちなみに、討たれた場所を武庫川辺にしていない史料は他にもあります)


どんな物でも、先入観をなくして丁寧に読む事が大切だなと
ほんと思い知らされて、とても勉強になりました。

もう少し続きます。
http://nazowada-bike.way-nifty.com/tadayoshi/2019/07/post-bd09c1.html

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『観応二年日次記』を読む ①

7月27日
史料講読講座の有志の方たちとの勉強会でした。

今まで、用意していただいた所に参加するばかりだったのですが、
今回初めてホストを務め、
一人で少しずつ読んでいた『醍醐地蔵院日記』を、参加者の皆さんと読ませていただく事にしました。
これは、醍醐寺の僧房玄が書いた日記で、
貞和4年と観応2年の部分が残っています。

すべてを読むのは時間的に無理なので、
個人的に興味のあるネタ……
具体的には『観応二年日次記(かんのうにねんひなみき)』と呼ばれるパートに書かれている
2月26日の高一族誅殺が、どのような流れの中で行われたかを追うことにしました。

ここへ至るまで数日間にわたって、激しい合戦があったので、
ほんとは、そこから読みたかったのですが、
これも分量的にちょっときつそうだったので、
すっぱり諦めて、戦後処理の始まる21日の条から。
結果的には、
所定の時間内にすごくきれいに納めることができて、
我ながらよい判断だったと思います。


ただ読むだけではおもしろくないと思い
同時代の代表的な史料と突き合わせて、
内容の検討をする事にしました。

と言いますか…
この高一族の誅殺には、
貞和5年に謀殺された上杉重能の仇討という一面があって、
その仇討を、
足利尊氏は承知していたのではないか?と言われてきたのですが、
ここ最近、
「いや、尊氏はまったくあずかり知らなかった」
という説が支持されてきています。
その根拠のひとつが、この『観応二年日次記』の記述なんですね。

そこを読み解いてみたかったのです。


前置きが長くなりました。
続きは記事を変えてお話します。

http://nazowada-bike.way-nifty.com/tadayoshi/2019/07/post-23e91b.html

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2018年5月 3日 (木)

北条貞顕関連年表

鎌倉幕府滅亡アンソロジー『妖霊星を見ばや』に
北条貞顕と称名寺長老剱阿のお話『称名寺断簡』にて、参加させていただきました。

作品制作に当たって、
時系列整理のために年表を作成していたのですが、
少し詳しくまとめ直したので公開します。

「sadaakinenpyoh.pdf」をダウンロード

利便のため作成しましたので、
名前の表記は流派になっています。
最初ざっくりした流れだけを書き出した部分について
日付など直しきれていない所があるかもしれません。

あくまでも、
自分の作品のために作った物ですので、その点ご容赦下さい。

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